我が子へのマナー第4回

┃「親心」という言葉で自分を正当化する親たち

私たち親は、よく「親心」という言葉を使いますよね。
 
ついつい、してあげたいと思ってしまう。
 
ついつい、こうなって欲しいと思ってしまう。
 
そして、ついつい、我が子を心配してしまう。
 
その結果、ついつい、世話をやいてしまう。
 
「親心」とはそんな親の心理を、ほほえましく表現するときによく使われます。
 
でも・・・。
 
じっさいのところ「親心」とは、たんなる親のエゴにすぎません。
 
親自身の欲求を満たそうとしているわけですから、当然のことです。
 
たとえば、美味しいものを食べさせてあげたい、遊園地に連れていってあげたい、贅沢をさせてあげたい。
 
どれもこれも親の欲求です。
 
「いや、それによって子供がじっさいによろこぶんだから!」
 
もちろんそうだと思いますが、それも、
 
「子供をよろこばせたい」
 
という親のエゴを満たしているにすぎません。
 
ましてや子供がのぞんでいないのに、健康な食材を食べさせてあげたい、習い事をさせてあげたい、いい教育を受けさせてあげたい、と考えること。
 
このすべては、子供の心を無視した、わかりやすい親のエゴです 
 
一方、子供の心を尊重し、自由に考えられる子に育てたい なんでも自分で決められる子にしてあげたいと、子供の意見を聞いてあげたとしても。
 
それは「子供の心を尊重してあげたい」という親のエゴです。
 
つまり私たち親は、子供になにかしてあげたいと思った時点で、親のエゴから逃れられないということ。
 
そのエゴを振りまわして生きている、とても身勝手な存在なのです。
 
だから「親心」とは、じつはほほえましくもなんともない、ドロドロとした親のエゴのかたまりだと言えるでしょう。
 
 

┃親のエゴを「愛情」だと勘違いしてしまう

ハートの置物を抱えて満足げに笑う夫婦

にもかかわらず、世間は「親心」に甘いものです。
 
お互いの親心エピソードを語り合い、
 
「ついついしてあげたいと思っちゃうんだよね~」
 
などと言って、親同士で互いを甘やかす。
 
「親の気もち」をかばい合ってしまう。
 
つまり、たんなる親のエゴを「親心」という言葉でかんたんに正当化してしまうのです。
 
本来、親心の多くは「我が子へのマナー違反」をおかしています。
 
子供の気もちよりも、一方的に親のエゴを優先している。
 
その結果、子供の陣地内にズケズケと入ってしってしまうわけです。
 
これは私と同じような、アダルトチルドレンと自覚されているパパママに多い状況でしょう。
 
なぜならアダルトチルドレンは、そのような子供の気もちを無視した「親心」を、親から「愛情」だと教わってきからです。
 
「お前のためを思って」
 
「こうすることがお前のためだ」
 
「愛情があるからこそ言うんだ」
 
といった言葉で、親自身の望む行動を子供にとらせる。
 
それに対して子供が不平を言おうものなら、
 
「あれもしてあげたのに」
 
「これもしてやっただろ」
 
と伝家の宝刀を抜くかのように、過去の「してあげたエピソード」を恩着せがましく並べ立てる。
 
そのどれもが、親が勝手にしたことであるにもかかわらずです。
 
しかし、親は本気でそれが純粋な子供への「愛情」だと信じている。
 
じつは親自身の望みをかなえたいという自己愛の裏返しだと気づいていない。
 
たんなる「親のエゴ」だと気づいていない。
 
どれほど子供の気もちを踏みにじっているかに気づいていない。
 
そして「親心」という言葉で、自分のエゴを美化してしまうのです。
 
つまり親心は、
 
「ついついしてあげたいと思っちゃうんだよね~」
 
といった軽いノリで済まされる話ではないということです。
 
「親心」は、我が子へのマナー違反の原因になっているのです。
 
 

┃「子心」という言葉が存在しないという不条理

私たち親は「親心」を甘やかし、親の気もちをかばいます。
 
一方、「子供の気もち」をそこまでかばってあげることがあるでしょうか。
 
子供が親に反抗したとき、
 
「ついつい反抗しちゃうんだよね~」
 
と甘やかし、かばってあげられる親が、世間にどれくらいいるでしょう。
 
そもそもそういう風習が、この日本にあるとは思えません。
 
つまり、子供の気もちである「子心」を、徹底的に肯定する場面などほとんど見かけません。
 
というか「子心」というものがあることじたい、ろくに考えられていないと言えるでしょう。
 
試しにその証拠を一つお見せします
 
私たち親が、親のことしか考えておらず、子供の気もちを考えていない証拠です。
 
パソコンでもスマホでもかまいません。
 
「おやごころ」と入力してみてください。
 
すぐに漢字の変換候補がと出てくると思います。
 
では「こごころ」と入力してみてください。
 
変換候補は出てきません。
 
そうなんです。
 
この日本には「子心」という言葉がないのです。
 
そういう概念すらないのです。
 
これって、ものすごく恐ろしいことだと思いませんか?
 
私たち親も、誰だってちょっと前まで子供でした。
 
自分たちだって、さんざん子供時代を経験してきたわけです。
 
にもかかわらず、その子供のころの心を忘れてしまっています。
 
そして「親目線」で子供に接してしまいます。
 
「子心」の存在を認めず、自分が子供のころの心も忘れてしまっている・・・。
 
そうして「親心」というエゴだけが、世間を覆いつくしているのです。
 
 

┃「親子心」を大切にしよう

草原で静かにたたずむ三人家族

こう考えてみると、親というのはとても褒められた存在ではありません。
 
基本的に、どうしようもなく自分勝手で忘れっぽい生きものだということです。
 
まずは、それを自覚しなければいけません。
 
私たち親は、親心というエゴにまみれた「どうしようもなくレベルの低い生きもの」なのです。
 
だからといって、「親心」をまったく捨ててしまって「子心」だけを優先しようとする人がいます。
 
しかし、人間というのはそんなに器が広くありません。
 
子供のことばかり優先して生きていけるほど、立派な存在ではないのです。
 
だから「子心」ばかりを優先していても、やがて無理がたたって、子供にヒステリーをぶつけてしまったりする・・・。
 
だから重要なのは「親子心」です
 
「親心」だけでもない。
 
「子心」だけでもない。
 
「親子心」が重要なのです。
 
子供にもエゴがあり親にもエゴがあるという、当たり前の「現実」としっかりと向き合っていく。
 
そうしてどちらのエゴも包み込んで、その「両極」を成熟させようと努力していく。
 
そういう子育てが「我が子へのマナー違反」を防いでくれるのだと、私は考えています。
 
アダルトチルドレンの子育てを支える会会長
生きづらさ専門カウンセラー
しのぶ かつのり

おすすめの記事